「東海勢力」とは何者か
古代日本を語る際、近畿のヤマト王権や九州の勢力が注目されがちです。
しかし弥生時代中期から後期にかけて、伊勢湾を中心に、それらと拮抗するほどの力を持った「東海勢力」が存在したと考えられています。
この勢力を知ることは、地域の神社や史跡の由来を読み解く手がかりになるだけでなく、当サイトのテーマである尾張・名古屋のアイデンティティについて考える上でも重要です。
しかし日本史の教科書などには、その実態についてはっきりと書かれていません。
この記事では、考古学の資料などを手がかりに、「東海勢力とは何者だったのか」という問いを考察してみることにします。
なお、現時点では確証のない部分については、推測や仮説として明示しながら論を進めます。
弥生前期〜中期:近畿との共通ルーツ
古代日本の文化形成は、土着の縄文系(狩猟・採集・漁労、アニミズム信仰)と、大陸から渡来した弥生系(稲作、金属器技術、定住)の長期的な融合過程として理解されています。
考古学的に見ると、弥生時代前期までは近畿と東海は、土器の流通や「銅鐸」という共通の祭祀具を持つ、密接な関係にありました。
定住化が進む
縄文時代は狩猟採集社会で、基本的に移動生活だったとみられます。
弥生時代に入り、稲作・農耕社会となったことで、定住化が進みます。
定住社会が確立する以前は、人やモノの移動が活発だったため、近畿と東海の間でも土器や銅鐸が広く流通していたのではないか、という推測も成り立つと思います。
銅鐸から読み解く
銅鐸には大きく、
- 東海系の「三遠式銅鐸」
- 近畿系の「近畿式銅鐸」
の二つのタイプがあります。
西遠江(現在の静岡県西部)や伊勢では、この二つが混在して出土します。この混在は、近畿と東海がもともと近しい関係、あるいは同一ルーツを持つ集団だったことを示す証拠と解釈できます。
この時代の東海勢力は、独自のアイデンティティを持ちつつも、近畿勢力と多層的な交流・ネットワークを維持していたと見られます。
参考:遠江の土器と銅鐸(予察)
弥生時代の信仰について(推測)
銅鐸などの青銅器は、宗教的・祭祀的な用途で用いられたとされます。
筆者の見立てでは、縄文系の民俗信仰的な精神風土と、大陸由来の青銅器製作技術の融合が、弥生文化の大きな特徴の一つだったのではないか、と思われます。
また、その祭祀を担った集団の末裔が、のちにヤマト王権において祭祀や兵器・武具の管理を担った「物部氏」につながる可能性も考えられます。
ただしこの点は、文献・考古学的な裏付けが乏しく、あくまで仮説の域を出ません。
いずれにせよ、こうした青銅器を用いた信仰は、大陸文化の強い影響を受けた箸墓古墳の登場とともに、考古学的な痕跡が見られなくなります。
弥生中期後半:東海の独自進化
弥生中期後半(中期第4段階)を境に、近畿と東海の間に明確な変化が生じます。
- 技術の分岐: 近畿が回転台(ろくろ)を用いた効率化へ進んだのに対し、東海は手作業による独自の合理化を追求しはじめました。
- 交流の途絶: この時期を境に、両地域間での土器の物理的な移動がほとんど見られなくなります。
氏族的なまとまりの形成
一般的に、農耕社会では、水田などの固定資産の継承という問題が生じます。
このため、血縁・地縁に基づく氏族的なまとまりが形成されやすくなります。
こうした社会構造の変化も、近畿と東海それぞれの地域的アイデンティティが強まる一因となった可能性があります(推測)。
朝日遺跡の繁栄
この時期、東海地方には「朝日遺跡」(現在の愛知県清須市~名古屋市西区周辺)という日本最大級の生産センターが稼働していました。
朝日遺跡は、この弥生中期頃に最盛期を迎えたとされます。
ここで培われた手工業技術と組織力が、後に近畿勢力と対等に渡り合える「東海勢力」の経済的基盤となったと考えられます。
ひょっとしたら、氏族社会の萌芽が、この頃に出現していたのかもしれません。
参考:弥生時代における地方間交流 伊勢湾地方弥生土器の型式変化と移動
弥生後期:伊勢湾圏の緩やかな連合体
弥生後期になると、東海の勢力構造は一変します。
一つの巨大集落(朝日遺跡)に集中していた形から、複数の拠点集落が分業・連携するネットワーク型(分散複合型)へと移行したのです。
この変化の背景として、約2000年前に発生した巨大地震の影響が指摘されています。朝日遺跡自体も津波などの被害を受けた可能性があるとのことです。
文化圏を象徴する「山中式土器」
この移行を象徴するのが、「山中式」と呼ばれる土器型式の広域分布です。尾張を核に、伊勢・三河・遠江(天竜川以西)までをカバーする広大な文化圏が形成されました。
この文化圏を、当記事では「伊勢湾文化圏」と呼びます。
濃尾平野の低地部で成立した山中式土器は、弥生後期を通じて周辺の伊勢・三河へと強い影響を与え、地域ごとの土器様式を塗り替えるように広まっていきました。
また、広く分布する山中式土器は一定の技術的・意匠的な共通性を持っており、これが地域間の密接な交流や政治的なまとまりを示す指標とされています。
伊勢湾文化圏内の「結びつきの強弱」
ただ、伊勢湾沿岸が完全に一枚岩だったわけではなく、地域によって結びつきの強さに差があったようです。
- 尾張: 独自の技術力を持ち、銅鐸の出土が少なく、自立性が高い中心地。
- 伊勢・三河・西遠江: 伊勢湾文化圏の一員でありながら、同時に近畿とも繋がりを持つ「二面性」を持った地域。
弥生後期の東海勢力は、独自の強いまとまり(山中式文化圏)を核にしつつも、その周縁部(伊勢・遠江)では近畿勢力とも多層的な外交・ネットワークを形成していたと見られます。
現代の都道府県につながる行政区画の源流が、この時代に出来上がったのかもしれません。
古墳時代への移行:ヤマト王権の成立
3世紀頃、日本各地で銅鐸が埋納され、奈良・大和の地に大規模集落「纏向遺跡」と巨大な前方後円墳「箸墓古墳」が突如として登場しました。
いわゆる「ヤマト王権」の成立です。
「魏志倭人伝」に記された邪馬台国が、この纏向遺跡に相当するとする「畿内説」は、現在も有力な学説の一つです。
平和的な連合として成立したヤマト王権
現代の歴史学では、ヤマト王権の成立は、各地の首長による自発的・平和的な連合によるものだったと解釈されています。
大規模な戦乱の考古学的痕跡が確認されていないためです。
「魏志倭人伝」や「日本書紀」に描かれる戦乱の記述は、脚色や後世の編集が含まれる可能性が指摘されています。
東海勢力もヤマト王権に参画
ここで重要なのは、東海勢力もこの連合政権に深く関わっていたことです。
奈良の纏向遺跡には、他地域から大量の土器が搬入されました。その外来系土器の中で、東海系土器が約半数を占めるとされています。
このことから、東海勢力は、最初期のヤマト王権の主要メンバーであった可能性が高い、と考えられます。
もともと東海勢力と近畿勢力は同一ルーツを持つと見られることも、連合を容易にした要因の一つかもしれません(この点は推測です)。
キャスティングボート的ポジションは弥生時代から?
日本史において東海勢力・とくに尾張の勢力は、その国力と立地を背景に、しばしば歴史の方向を左右する位置に立ってきました。
例えば、
- 壬申の乱(672年):
大海人皇子側に、尾張国守が2万の兵を率いて参加し、不破の要衝封鎖などで決定的役割を果たしました。 - 戦国時代:
織田信長が天下布武の起点となり、豊臣秀吉・徳川家康とともに東海勢力が中央政権を形成しました。ここでも経済力と交通が鍵でした。 - 明治維新:
薩長土肥に加え、御三家筆頭の尾張藩が新政府側に付いたことで、趨勢が決定しました。 - 現代:
日本最大規模の中京工業地帯を擁する東海地方が、日本経済を支えています。
ヤマト王権の成立に際しても、同様だったと思われます。 東海勢力が加わることで、権力基盤が安定した、といえます。
このキャスティングボート的なポジション、別の言い方をすれば「東海勢力の枢要性」は、弥生時代に遡ると言えそうです。
文献における東海勢力
狗奴国との関連(仮説)
「魏志倭人伝」に記された邪馬台国のライバル「狗奴国」の実体が東海勢力であったとする説があります。
というのも、邪馬台国が畿内勢力とした場合、それに対抗できる勢力は、東海勢力ということになるからです。
当時の東海エリアは、特定の王が支配する専制国家というよりも、高度な技術と広域流通で結ばれた氏族連合体としての性格を持っていたと考えられます。
ただ、「狗奴国=東海勢力」説にも弱点があります。
もし「狗奴国=東海勢力」だとしたら、狗奴国もヤマト王権の成立に参加したことになり、「魏志倭人伝」の記述との整合性が問題になります。
また「魏志倭人伝」に描かれる倭国大乱や邪馬台国・狗奴国の抗争についても、大規模な戦乱を裏付ける考古学的証拠は見つかっていません。
「狗奴国=東海勢力」説は有力な仮説の一つですが、異論も多く、現時点では確定していません。
国津神の神話
日本神話には、土着の国津神が、高天原から降臨した天津神に国土を譲ったという「国譲り」の神話があります。
ヤマト王権が各地の首長たちによる広域的な連合だったとした場合、そこに参加しなかった勢力も存在すると思われます。
それらの勢力が、「大国主命」「伊勢津彦」といった国津神の神話のもとになったのかもしれません。
ヤマト王権が成立した背景(考察)
ヤマト王権は、中国大陸・朝鮮半島といった東アジア情勢に関連付けると、その成立過程が理解しやすいのではないかと思います。
東アジア情勢と「倭国」という意識の形成
箸墓古墳が登場した3世紀は、中国大陸では「三国志」の時代にあたります。
西暦200年頃、公孫氏によって朝鮮半島に半独立国「帯方郡」が成立し、倭や韓はこれに従った、とされます。
帯方郡は朝鮮半島・中国大陸・日本列島をつなぐ東アジアのハブとして機能したと考えられています。
大陸文明の流入
帯方郡の郡治は、その周囲の数十県の軍事・政治・経済を束ねる大きな城塞都市だったとされます。
ここが大陸文明との接点となりました。
帯方郡との関係や大陸文明との接触を通じて、各地の政治集団(クニ)の上位概念として「倭国」という広域的なアイデンティティが形成されていったと推測されます。
3世紀前半に、纏向で都市建設が始まる
纏向遺跡は、3世紀前半に、突如として都市建設が始まりました。
この新しい都市は、
- 3世紀初頭〜中頃に突如出現した計画的な大型集落
- 居住用の建物や生活の痕跡が少なく、大型建物・祭祀施設が中心
- 全国各地からの外来土器が大量に搬入
という特徴があります。
纏向遺跡の全体像
以上の推論をまとめると、纏向遺跡の全体像は、
- 大陸文明の受容と、「倭国」というアイデンティティの具現化
- ヤマト王権の「新首都」として、計画的に建設開始
- 新首都の建設には、全国の首長が平和的に参加
- 卑弥呼は、各地の首長が共立した祭祀の長
- 人口が「七万戸」と記された邪馬台国とその首長は、別に存在する
ということになるかと思います。
祭祀の中心都市としてのヤマト王権の新首都の建設開始とともに、全国の首長は、旧来の青銅器祭祀の文化から脱し、新たな文明的枠組みを受け入れる決断をしたのかもしれません。
参考URL:第31回 「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる」
公孫氏の滅亡が与えた衝撃(推測を含む)
238年、帯方郡を建てた公孫氏が魏の司馬懿(仲達)によって滅ぼされます。
この出来事は倭国にとって大きな衝撃だったと推測されます。
倭国はほどなく魏との直接交流を開始し、240年頃には魏の使者が来訪したとされています。それまでは、魏とは帯方郡を介して間接的に交流していました。
魏との直接的な外交を通じて、大陸の鏡(画文帯神獣鏡など)・思想・土木技術が一気に流入しました。
その集大成として、巨大な箸墓古墳が誕生した、というのが筆者の解釈です。
箸墓古墳はなぜ造られたか(推測)
巨大古墳の造営は、在地の諸勢力に対して連合体の威信を示すため、という説があります。
これは筆者の個人的見解ですが、もしヤマト王権が内発的・平和的な連合であれば、膨大な労力を費やしてまで威信を示す必要があったかどうかは疑問に思われます。
むしろ、魏など大陸の国家に対して「倭国」としての国力・統合力を示す外交的な意図があった可能性も考えられます。
歴史的な大転換点
纏向遺跡における新首都の建設と箸墓古墳の登場は、日本列島における政治風景を一変させるものだったと思われます。
明治維新・文明開化に匹敵する歴史的な大転換点として語られることもあります。
日本が大きく変化する際に外圧が引き金となる例は、黒船来航と明治維新という近代の事例にも見られます。
ヤマト王権の成立や箸墓古墳の造営もまた、そうした外圧への対応という側面を持っていたかもしれません。
参考:卑弥呼と三国志──知られざるグローバルな外交戦略【新・古代史】
古墳時代:尾張氏の台頭と塩の支配
古墳時代に入ると、東海勢力は新たな「戦略物資」を手に入れます。それが「製塩」です。
古墳時代前期までは小規模にとどまっていた製塩が、中期以降に「知多式製塩」として確立されると、生産量は飛躍的に増大しました。
生命維持に不可欠な塩の供給権を握ることは、ヤマト王権に対して強い発言力を持つことを意味します。
この経済的優位性が、後の「尾張氏」の台頭を下支えしたと考えられます。
東海勢力=尾張氏か?
ここまでくると、東海勢力=尾張氏ではないか、という疑問が自然に湧き上がります。
しかし、前述のように、東海勢力が一枚岩ではなかったことを考えると、容易に断定はできない、となりそうです。
この問題については、さらに細かい議論が必要になるので、別の機会にしようと思います。
まとめ:東海勢力とは何者だったのか
本稿の考察をまとめると、東海勢力とは「産業基盤・立地・広域ネットワークを武器に、近畿など他地域とは異なる独自の進化を遂げた文化圏」と表現できます。
弥生前期には近畿と共通ルーツを持ちながらも、中期後半以降は独自の技術と生産体制を確立し、後期には伊勢湾を囲む広域文化圏(伊勢湾文化圏)を形成しました。
そしてヤマト王権の成立においても、主要な参画勢力として深く関与したと考えられます。
古墳時代には製塩という新たな経済基盤を獲得し、歴史の表舞台で存在感を発揮します。
その後も、壬申の乱、戦国時代、戊辰戦争、現代の中京工業地帯と、戦略的ポジションを維持し続けてきました。
現在の東海地方が持つ「ものづくり」「流通」「独自性」という地域的特色は、弥生時代にすでにその原型が形成されていたといえるかもしれません。
本稿で扱った内容には、考古学的・文献学的に未確定の部分が多く含まれています。
今後の発掘成果や研究の進展によって、描像が大きく書き換えられる可能性もあります。
この記事が、東海地方の古代史に関心を持つきっかけになれば幸いです。