この記事は、「天白の名の由来」の続きです。
古代において、伊勢から信濃へと至るルートがありました。 律令制において定められた駅路とは別の、東三河・遠州から天竜川沿いに進むルートです。
そこには、政治的な動乱と共に移動した氏族の足跡が残されています。
ネット情報や書籍などで調べた内容を、時系列形式でまとめました。
4~5世紀頃
かつて伊勢(現在の三重県)の地は、国津神系の有力な土着神である伊勢津彦(いせつひこ)が支配していました。
しかし、4世紀から5世紀頃にかけてヤマト王権が拡大し、「国譲り」の圧力が強まると、伊勢津彦は国土を献上し、強風に乗って信濃(長野県)方面へと去った、と伝えられています。
国津神系の勢力の平定
同時期の東国(関東・信濃)においても、天津神系の勢力による平定が進んでいました。
出雲系の建御名方神(たけみなかたのかみ)が諏訪へと追いやられたほか、最後まで抵抗した星の神・香々背男(カガセオ)の伝承が残っています。
技術・文化による統治?
興味深いのは、経津主神・武甕槌命という強力な武神たちが屈服させられなかったカガセオを最終的に平定したのは、武力ではなく、機織りの職能を持つ倭文神(しどりの神)・建葉槌命(たけはづちのみこと)であったという点です。
これは、武力制圧の限界と、その後の「技術・文化による統治」への転換を象徴しています。
6世紀頃
職能集団「麻績氏」
伊勢津彦が去った後の伊勢の地では、機織りの高度な技能を有し、長白羽神(ながしらはねのかみ)を祖神と仰ぐ「麻績氏」が勢力を伸ばしました。
平安初期の記録「古語拾遺(807年)」によれば、麻績氏は祭祀を司る忌部氏の系統に属すとされています。
麻績氏は伊勢神宮の神御衣(かんみそ)を奉織する「神部」として、王権の祭祀を技術面から支える重要な地位を確立していきました。
7世紀後半
7世紀後半、天武天皇の時代に起こった「壬申の乱」などの政変は、麻績氏の運命を大きく変えることになります。
675年には皇族である麻績王が流刑に処される事件が起きます。これに伴って麻績氏の職能集団(麻績部)も各地へ分散・移動したのではないか、と推測します。
この時期、麻績氏の一部は、再び伊勢の地を離れ、信濃方面へと向かったようです。
かつて忌部氏の同族として栄えた麻績氏ですが、「古語拾遺」が記された9世紀初頭には、中央政界におけるその存在感は失われていったと嘆かれています。
しかし、その足跡は地方の地名の中に刻まれることになります。
信仰の分布と移動ルート
天白信仰や麻績氏の痕跡は、伊勢を起点とし、三遠地方(東三河・遠州)を経て天竜川を北上、諏訪方面へと至るルートに沿って分布しています。
特筆すべきは、この移動ルートが古代の官道である「東山道(美濃から神坂峠を越えるルート)」とは重ならない点です。
東山道は後の高速道路「中央自動車道」に近い難所を通りますが、麻績氏の移動はそれよりも古く、あるいは官道を避ける形で行われたため、より自然な地理的動線である天竜川沿いの低地が選ばれたのではないか、と推測されます。
天白信仰と伊勢津彦をめぐる仮説
天白信仰の分布が麻績氏の移動ルートと一致することから、「天白信仰とは麻績氏による信仰ではないか」という仮説が立てられます。
山田宗睦氏は著書「天白紀行」において、その始原を麻績氏の祖神である「長白羽神」に求めています。
伝承の導き
7世紀に伊勢を追われた麻績氏が信濃を目指したのは、数百年前の先住神・伊勢津彦が信濃へ去ったという古い伝承を「同郷の先人の道標」として頼りにした結果ではないか、と推測します。
あるいは、伊勢津彦の時代から、伊勢と信州をつなぐ交易ルートが存在していたのかもしれません。
伊勢津彦と麻績氏という、数百年の時間差を伴った氏族の移動は、ミシャグジ信仰の存在によって示唆されます。
ミシャグジ信仰との関連
天白信仰と類似した分布を見せるのが、伊勢から北信州に広がる「ミシャグジ」信仰です。
これもまた推測になりますが、ミシャグジ信仰は、伊勢津彦を奉じていた古い氏族の信仰であり、それが先行して信濃へ伝播し、後にやってきた麻績氏の天白信仰と重なったのかもしれない、と思います。
このように、伊勢から信濃への道は、数世紀の時を隔てて「国津神系の勢力(伊勢津彦)」と「技術の勢力(麻績氏)」が同じルートを辿り、独自の信仰圏を形成していったのではないか、と思われます。